《No. 43》 105年前、あるサマーハウスでの出来事

 ニューヨーク郊外の全寮制高校にいる娘に会うために、ワシントンから片道255マイル(約410キロ)の行程を、車を飛ばして年に4,5回通っています。今回卒業式を迎え、この長旅も最後の機会なるということで、アウトドア派の友人が「せっかく自分で車を運転しているなら、混雑するマンハッタンを迂回するためにも、Sagamore Hillに立ち寄るといいよ」と助言してくれました。


 NYからロードアイランドに向かうハイウェイで、およそ1時間。海辺のオイスター・ベイと名づけれられた小さな洒落た港町を望む丘の上が、そのSagamore Hillというアメリカ内務省国立公園局が管理する国定史跡(National Historic Site)でした。


 アメリカの国立公園といえば、日本にも縁の深いロックフェラー家の2世(J.D. Rockefeller, Jr.)が国立公園の保護のために私財を投じたのはよく知られています。現在、全米に58カ所の国立公園があり、国定史跡は123カ所あるそうです。そのひとつであるSagamore Hillについては、「たしか、日露戦争が関係しているはずだ」と友人が教えてくれるまで、まるで聞いたこともありませんでした。


 42歳で第26代米国大統領となったセオドア・ルーズベルトは、NYの裕福な家庭に生まれ育ち、小さな頃からこの地の別荘で夏を過ごしていたそうです。20歳そこそこで39ヘクタールの土地をこの丘に購入したルーズベルトは、大統領時代の1902―1909年の毎夏、6人の子どもたちとともにここで執務を続け、まさに「夏の間のホワイトハウス」だったそうです。




サガモア・ヒルでの大統領一家


 その期間中の出来事が、日露戦争の勃発でした。そして日露両国の和平交渉、それがルーズベルトの功績ということなのですが、これまでこの講和会議の舞台は、ニューハンプシャー州のポーツマスだと思っていました。たしかに講和条約に調印されたのは1905年9月5日ポーツマスでのことですが、その1ヶ月前、ここSagamore Hillにおいてロシアと日本の特命全権公使を別々に呼んで面会し、相互の話し合い実現をはかったのがルーズベルト大統領だというのです。


 1905年6月11日付けルーズベルトは、息子(次男で15歳のカーミット、上の写真で右から3番目)宛への手紙に、こう記しています。


「彼らが合意のためのテーブルに着くかどうか、それは分からない。しかし、もし平和を獲得するチャンスがあるのだとすれば、それは価値あることだ。……とにかくこの試みは、ためしてみる価値はあるのだ」と。


 1906年、ルーズベルトはこの和平交渉の功績によって、アメリカの現役大統領として初めてノーベル平和賞を受賞しました。先般、核廃絶を訴えたオバマ大統領が同賞を受賞したときに、彼が最初の現役大統領ではなくすでに前例があったのは、このテディ・ルーズベルトだったのでした。



サガモア・ヒル史料館にて


 中央にセオドア・ルーズベルト大統領、左端からロシア全権セルゲイ・ウィッテ、ローゼン駐米大使、大統領の右隣が小村寿太郎、右端に高平小五郎駐米公使の署名が見えます。ポーツマス講和のいろいろな資料をみても、なかなかこの5人がそろって記念撮影している写真を見ることがありませんので、これは貴重な1点かもしれません。


 とかくアメリカの国立公園は「自然」が前面に出ていて、「歴史」を感じることが少ない印象がありますが、実はこんな足元の手が届くところに「歴史」を発見するのも、夏休みのちょっとした旅の醍醐味です。この夏、また新たな発見を求めて、いくつか週末に出かけてみるとしましょう。



当時、日本で売られていた絵葉書には、明治天皇とルーズベルト大統領の肖像画が描かれています。また明治天皇から下賜された日本刀も陳列されていました。

《No.42》 サムライ・ウィーク in DC!

 今からちょうど150年前、日本からの初めての外交団・万延元年遣米使節団がワシントンにやって来ました。ペリー提督率いる黒船が、下田に入港し日本に開国をせまった1854年から6年後のことです。


 初代駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの間で結ばれた日米修好通商条約の批准書を交換するために、ハリスに促されて、徳川幕府が初めてアメリカに送った外交団は、ポーハタン号に乗り組んだ77名からなるサムライたちでした。

 
 日本から太平洋を渡る際の随行船・咸臨丸とその艦長・勝海舟や福沢諭吉とジョン万次郎の話はとても有名です。咸臨丸はサンフランシスコで泊まり、帰国しましたが、使節団77名はそこからさらに北米大陸の南を回って、パナマで陸路を通って大西洋側に出て、今度は出迎えの米国船で、ワシントン、ボルティモア、そしてニューヨークへと旅を続けました。このことは、日本でもあまり知られていません。当地では一部の専門家以外には、まるっきり知られていない史実です。


 ところが、当時の米国民からは大変な熱狂ぶりで各地で歓迎式典が開催され、多くの新聞がイラスト入りでこれを報じ、ニューヨークのパレードの様子を見た、詩人ウォルト・ホィットマンが長い詩を詠んだくらいなのです。


 さてこの使節団ですが、正使・新見正興、副使・村垣範正、そして目付・小栗忠順(司馬遼太郎に「明治の父」と評価された小栗上野介)が使節団の主なメンバーでした。ワシントンには3週間以上滞在をし、ジェームス・ブキャノン大統領に謁見し、批准書の交換がつつがなく行われました。


視察したワシントンの海軍工廠にて


 当時の様子は、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人等が設立した「ホワイトハウス歴史協会」のサイトで、The Guest of the Nation: The Japanese Delegation to the Buchanan White Houseをご覧ください。執筆者のDallas Finnさんは明治建築の専門家で、90歳の高齢ながら、先日あるパーティにも来てくださり、「日本語が懐かしいわ」と元気なお姿を見せてくれました。

http://www.whitehousehistory.org/whha_publications/publications_documents/whitehousehistory_12.pdf


 この150年前の日米交流の基礎となる、まさに人と人との最初の交流がこの地で行われたことを記念して、私たちはSamurai Weekと銘打って一連の文化イベントを開催しました。


 まず、使節団が滞在したウィラード・ホテルでは、週末の午後に通常供される英国風アフタヌーンティーを、当時の日米二つの文化の出会い風に演出しました。日本人俳優にサムライの装束をまとってもらい、また当時のビクトリア朝衣装愛好家アメリカ人たちに来ていただき、マダム・タッソーから、当時のブキャナン大統領の蝋人形を借りてきて演出しました。

お茶を待つビクトリア朝の装いの人たち




3段重ねのケーキサーバーには和菓子と手まり寿司。日本茶をすすりながらのアフタヌーン・ティーを楽しむお客様を睥睨するブキャノン大統領(蝋人形)


 また、当時の資料を所蔵する米国議会図書館とも共催で、入江昭先生や、ロナルド・トビー先生など歴史家を招いて、幕末から明治にかけての日米交流に関する講演会を行いました。


 その後は、会場を大使館の広報文化センターに移し、ニューヨークから日本人俳優さんたちに来ていただき、殺陣を交えた剣劇公演を、そして翌日から3夜連続でサムライ映画を上映したのでした。ワシントン・ポスト紙でも、ウエブ週末版にBest Event in this Weekendとして取り上げられるなど、「サムライ」はすでに英語になっており、どのイベントも大人気でした。「浪人」という言葉まで、Masterless Samuraiという訳語とともに、認識されていることを考えると、現実社会においても、日本人男性は実はカッコいいのだ、というイメージをもっと演出しなければと思った月末でした。


当センターでのイベント詳細は、以下のサイトで。
http://www.us.emb-japan.go.jp/jicc/pdf/Evening%20with%20Samurai%20Flyer.pdf

http://www.us.emb-japan.go.jp/jicc/pdf/Yojimbo%20flyer.pdf

http://www.us.emb-japan.go.jp/jicc/pdf/Hidden%20Blade%20flyer.pdf

http://www.us.emb-japan.go.jp/jicc/pdf/Samurai%20X%20Flyer.pdf

《No.41》高峰譲吉博士と桜、松、楓、そして菊

 人類にとって福音となった新薬の開発――しかも今から100年前に作られた薬で、現在でも世界中で使われているものは、3種類しかないそうです。アスピリン、アドレナリン(止血剤)、そしてタカジアスターゼ(消化剤)がその三つですが、そのうちの二つまでもが、日本人化学者の高峰譲吉博士の手による発見です。


 私も、映画「さくらさくら――サムライ化学者・高峰譲吉の人生」の市川徹監督から教えていただくまで、まったく知りませんでした。この映画が3月末に、博士の故郷である富山・石川で公開されたことをインターネットで知った私は、無理を承知で配給会社に連絡をしてみました。4月中旬に、ワシントンDCで、しかも英語字幕版で上映できないだろうか、と。意外なことに、ロサンゼルスの映画祭に出品するために、すでに英語版は完成しており、DCでの上映会もぜひにという返事が、まもなく戻ってきたのは、すでに当地の全米桜祭りが始まっていた3月末でした。


 それから、監督ご自身も日本から飛んできていただくことになり、われわれの広報文化センターでの上映会と監督による舞台挨拶という4月14日のプログラムが、桜祭りの余韻が覚めやらぬうちに設定されることになりました(この上映会の模様は、北國新聞4月16日付けに掲載されました)。
 
 映画「さくらさくら」HP http://sakurasakura.jp/
 
 まだ国際結婚そのものがほとんど無い時代に、米国南部の女性と結婚し38歳になってからアメリカで暮らし始めた高峰博士の人生は、まさに明治維新後の日本の近代化・産業化の歴史そのもののようです。薬の特許のおかげで巨万の富を得た博士とキャロラインは、ニューヨークはリバーサイドの豪邸に住み、日米のまさに架け橋として、知的・文化交流分野の大パトロンとなりました。ワシントンとNYそれぞれに3000本の桜の苗木を寄贈し、ジャパン・ソサエティや日本クラブ設立の際の資金提供だけでなく、日米の技術交流の仲介者としてさまざまな局面で仲介者ともなりました。


 ニューヨーク郊外に、映画でも触れられた高峰博士が建てた迎賓館・松楓殿が現存するという話は、数年前の雑誌『フォーサイト』で北岡伸一先生(当時の国連大使)がエッセイでお書きになっていたので、覚えていました。知己を頼って、現在の所有者の滝富夫さんに連絡を最初にとったのは、昨年の晩秋だったのですが、厳冬を避けて春を待ち、今回実際に見せていただくことになりました。


 マンハッタンから車でルート17号、42号とキャッツキル・マウンテン方面に約2時間北上すると、モンティチェッロ地区の小さな街フォレストバーグに、この松楓殿は静かな佇まいを見せていました。この街に入ったとたん、街道は松林が続き、なんとなく日光や那須のあたりの雰囲気を漂わせていました。



 そして一対の石灯籠にはさまれた私有地入り口に到着すると、そこはまるで米国ニューヨーク州とは思えない別世界でした。




 建物は1904年、セントルイスで世界博覧会が開催されたときに、日本政府がパヴィリオンとして建造したものが、そのまま解体されて移築されたわけです。そのあらましは、このウエブサイトで読むことができます。著者のブレンダン・ギルは、雑誌『ニューヨーカー』の常連執筆者で、建築関係の評論では他に追随を許さない人でした。


http://shofuden.com/index.php?page=imperial



 
 室内の柱に残る菊の御紋――。セントルイス博覧会で日本館として出展され、日本を象徴する御紋をつけた邸宅を政府から譲り受けて、この松と楓の地に移築した高峰博士は、どのような眼差しで、この菊を眺めていたのでしょうか。博士の日米関係のため、平和を願い捧げた情熱を考えるとき、祖国を離れているからこその一層の志の高さがあったのではないかと、私も遠く思いを馳せた一日となりました

《No.40》桜――春の訪れと「日本文化」のリンケージ

 丸2週間、3週末にまたがって開催されたワシントンの風物詩National Cherry Blossom Festival(全米桜祭り)が、今年も大盛況のうちに閉幕しました。


 この時期、学校の春休みやイースターと重なって、この16日間、DCを訪れる観光客150万人が、この全米桜祭りの何らかのイベントに参加しています。何と言っても街のあちこちに桜が咲き誇るこの街では、ワシントニアンの時候の挨拶も、まるで日本人のそれのように桜がらみになっています。しかもソメイヨシノ、カンザンなど樹木の種類までよく知っています。


 最終週末の土曜日(4月10日)に、今年で50回目を迎えるストリートフェスティバル「Sakura Matsuriさくらまつり」が開催されました。午前中に国立公文書館前から始まるパレードに続き、正午少し前から、連邦議事堂を遠くに望むペンシルバニア通りの4ブロックの交通がせき止められ、そこに5つのステージとたくさんの日本関連のテント、そして日本食やグッズのお店が並ぶのです。


 たった一日で開催されるストリートフェスティバルでは、その集客数はもちろんワシントンDC一の大きさですし、日本関連イベントでは全米一の規模でもあります。


16万人がひしめき合うペンシルバニア通り


アメリカ人グループによる武道デモンストレーションは終日続きます


 この期間中は、たとえばケネディ・センターでジャズ・コンサート・シリーズの幕開けがありましたが、そこでも「桜」とか「日本の文化」という言葉が、主催者の口から自然と出てきます。春の訪れと「日本」がリンクされてアメリカ人の心に刻まれていることは、嬉しいことです。以前、中国大使館が「桃」を当地でたくさん植樹して「中国文化」を植えつけようという試みをしたようですが、これは残念ながら定着しなかったと聞きます。


 なぜここまでワシントンは「桜」なのでしょうか。1912年に最初の3000本の桜が東京市から寄贈されたのがきっかけということを、以前にもここで書きました。しかし、実はこの費用を負担したのが、一人のアメリカ在住の日本人だったことは、まだまだ日本国内でも知られていません。

日本から寄贈されたものであることを伝える石碑と最初の桜


 その人の名は、消化薬のタカジアスターゼや止血剤のアドレナリンを作った、高峰譲吉博士です。彼が1922年にニューヨークで亡くなったとき、ニューヨーク・ヘラルド新聞は、「日本は偉大な国民を失い、アメリカは得がたい友人を失い、そして世界は偉大な化学者を失った」という追悼記事を書きました。


 この高峰博士の生涯を描いた映画「さくらさくら」が、3月末から故郷の富山・石川で劇場公開されたと聞き、私たちの広報センターでもさっそく、上映会を企画しました。これには市川徹監督も日本から駆けつけてくれ、会場は200名近い聴衆で満杯になりました。


 アメリカ人妻キャロラインと、36歳で米国に移住して以後、30年間この地で暮らした高峰博士の人生。2012年、ここワシントンにおける桜寄贈100周年に向けて、私ももっと知りたくなり、少し旅をしてみることにしました。(続きは次号で)


(ご参考)映画「さくらさくら」ホームページ http://sakurasakura.jp/

 

《No.39》 ハイチの人々のために「ミラクルバナナ」!

ハイチでの震度7の震災から、早くも2カ月経ちました。新婚旅行で訪れたのが、まだ豊かだったハイチだったというビル・クリントン元大統領が、被災直後の現地に入り、精力的な活動を展開した様子や、その疲れがたたったのたのか、心筋梗塞で緊急手術を受けたたニュースが、日本でも報道されたと思います。


 この街ワシントンは各国大使館が軒を連ねていますので、こういう国際的な緊急援助活動が展開される自然災害・事件などがあると、きそって何かをしようという機運が盛り上がります。もちろん、大使館だけではなく、コミュニティごとや学校でも「何か自分たちができることをやろう」という動きが自然にわきあがってくるのが、アメリカ社会の良いところだと、いつも思います。


 われわれ大使館も何かできないかしら、と考えていたところ、JETプログラムで埼玉県で2年間すごした経験があるわがセンターのスーザンが、「そういえば、日本の外務省職員がハイチに行って、バナナの木から紙をつくるという映画を観た覚えがあるわ」と言うではありませんか。

 
 さっそく、インターネットで検索してもらったところ、たしかに「ミラクルバナナ」という映画が見つかりました。製作委員会をあたりましたが、やはり2005年制作なので、すでに解散しており連絡先がわかりません。こういうときに役に立つのが、身内のネットワーク。同僚が本省時代にカリブ海諸国を統括する仕事をしていたこともあり、各関係者からあっという間に連絡先を探しだしてくれました。


 これは、大使館の派遣員としてハイチに赴任した日本人女性が、現地の貧困ぶりを目の当たりにして、何か彼らのためにできないだろうかという思いから生まれたストーリーで、実話に基づいているものです。ノートも自由に買うことのできない子どもたちの姿をみて、紙そのものが貴重品であるハイチで、化学薬品などを使わずに、手作りの紙をつくることができないか。大量に打ち捨てられているバナナの茎から、繊維をとって日本の和紙職人の技術を使って、紙を漉いてみてはどうだろう。試行錯誤のうえ、子どもたちと作ったバナナペーパーに、「お母さん、ありがとう」という文字を書いていみる。そんな感動の物語です。
 



映画「ミラクルバナナ」より


 この主人公のモデルとなった大使館員が、実は今現在、日本赤十字の職員として、まさにハイチの首都ポルトープランスで復興支援に携わっているということもわかり、にわかに我々も上映会実施に向けて、動き出しました。


 時まさに、日本の支援物資の輸送機が、帰路、アメリカ市民をフロリダまで乗せて飛んだり、陸上自衛隊の派遣も実施されたころでした。そういった日本政府による支援の紹介や、この映画のモデルとなった赤十字職員からメッセージをもらって、プログラムを組み立てました。映画の配給会社からも、「ぜひ、ハイチの人々のためにお使いください」というメッセージとともにありがたいことに上映権無料で、DVDを提供していただきました。


米国パスポートを手に、日本の輸送機でマイアミに向かうアメリカ市民の少女


 さらに、この街のチャリティイベントではで当然のように行われることで、当大使館ではなかなかこれまで実現できなかった募金活動を組み合わせるために、当地の日本商工会にお願いし、上映会後に観客からの浄財を得て、ニューヨーク国連本部のユニセフに寄付をしようということになりました。
 

さて、上映会当日2月17日、その前の大雪がまだ道路上に小山のように残されている中、152席の会場は満杯になりました。映画の評判も上々で、エンディングでは拍手も沸き起こり、また募金も462ドルも集まりました。


 ハイチの人々のために…という想いから始めてみた企画が、助走期間たった10日間でこのように意外な形で実ったことは、我々にとってもまさに“ミラクル”な経験となったのは、言うまでもありません。

《No.38》 初めてづくしの2010年

 111年前の大雪の記録を破り、“ハルマゲドン”ならぬ“スノーマゲドン”と呼ばれたワシントンDCでの降雪ぶりは、日本でも報道されたと東京の家族から聞きました。2月5日(金)は当地の世銀やIMFなどの国際機関が早々と休業宣言をだし、その日、午後からは連邦政府も早退を勧奨しはじめました。そして土曜日早朝からの本格的なブリザードとさらに水曜日の第2次ブリザードの影響で、月曜日から木曜日まで4日間続いた休業は、史上初めてだったそうです。


 まさにそんな雪嵐が吹きすさぶ6日(土)に、私は普段ならば車で10分足らずで到着できるホテルで開催されていた会議に、徒歩・地下鉄・徒歩で1時間半かけてたどり着きました。前日から全米各地から参集してくださった、アメリカ人の日本名誉総領事と、各界を代表する日系米国人が合計50名、そして全米に15館ある各日本総領事と東京の外務省からも幹部の外交官が加わり、アメリカにおける日本外交に関する会議が開催されたのです。雪に閉ざされたホテルですから、2日間の日程中外出もままらなず、途中で参加者の一人も欠けることなく会議は始まりました。



ブリザードの最中、会議会場となったホテル前の広場は、行き交う車も人の姿も無し


 ワイオミング州キャスパー市の名誉総領事、マリコ・テラサキ・ミラーさんの名前は日本でもよく知られています。柳田邦男原作のTVドラマ「マリコ」が、20年近く前にNHKで制作され放送されたのをよく覚えている一人として、今回も70歳代後半のマリコさんが、スカイブルーのジャケットを颯爽と着こなし、会議中も手短に要領よくパンチの効いた言葉で発言されるさまを見て、感動しました。ちょうどトヨタ車のリコール問題で、全米各地の日本企業や日本人イメージに対してどのような影響があるのかが、議題となっていました。


 父上の寺崎英成氏は、日米開戦直前に一等書記官としてワシントンに勤務していた外交官でした。「マリコ」の名前が、本省に打電される暗号文のなかでは、アメリカ当局の対日観そのものを意味していたと描かれていたことが、この会議中にも私の頭をよぎりました。

 マリコさんは、1995年、女性として初めて日本の名誉総領事として任命されましたが、今年この会議の出席者を見渡すと、すでに4人ほどの女性名誉総領事の姿があります。どの女性も、パイオニアであるマリコさんに対する敬意を表されていました。


 寺崎家と同様、日米の血を分けた“家族”の物語として、昨今こちらで話題になったのが、バンクーバー冬季オリンピックのスピード・スケートで金メダルの呼び声の高かったアポロ・アントン・オオノ君です。http://www.apoloantonohno.com/home


 2002年ソルト・レイク・シティから数えて3回目の冬季五輪出場。今回は、惜しくも銀メダルでしたが、あわせて6個のメダルを獲得しています。ソルト・レイク・シティ五輪で金メダル獲得の際に履いていたスケート靴は、当地スミソニアン博物館に永久展示されています。強いアスリートが人気を博すのは、アメリカ社会では当たり前ですが、彼の人気の秘密は、どういうところにあるのでしょうか。


 まだ幼いころに離婚した美容師の日本人のお父さんが、シングル・ファーザーとして彼を育て、スケートの練習のために“サッカー・マム”のようにスケートリンクと自宅間の長距離送迎をこなしたという美談の陰で、アポロ君自身はちょっとぐれて札付きの不良少年ぶりでも話題になったようです。冬季五輪で6個のメダル獲得というのも、歴代アスリートでトップに並ぶ記録だそうで、現場で実力を存分に発揮する運気を持つ人物、というのが、やはりここアメリカで評価される基準なのだと感じました。


 NYタイムズ紙がとりあげているアポロ関連記事http://topics.nytimes.com/topics/reference/timestopics/people/o/apolo_anton_ohno/index.html


 そういえば先述の会議で、参加者の日系米国人の女性弁護士が教えてくれたのですが、今年はアメリカでも10年に一度の国勢調査の年だそうです。米国市民も非市民も、4月1日現在、米国在住の人はだれでもこれを記入することが合衆国憲法で定められており、3月にはいると、どの家にもこの用紙が送付されてるとか。今年は質問項目がたった10問で、性別、年齢、人種、住居形態などの質問だけで、史上初の“簡単さ”だそうです。年明けから何かと「初もの」続きの2010年ですが、私自身、アメリカの国勢調査参加という初体験を楽しみにしています。


*史上初の簡単調査項目は、このサイトでチェックできます。http://2010.census.gov/2010census/how/index.php

《No.37》 ある日系アメリカ人二人の死から

大使公邸で毎年開催される在留邦人と日系アメリカ人をご招待しての新年会の前日、一通の電子メールが届きました。週に2回という驚くべきペースで、次々にニュースレターを発行している、90歳を超えるグラント・イチカワさんからのメールです。グラントさんは、日系アメリカ人退役軍人連合(JAVA)でニュースレターRound Robinの編集を担当しているのです。


第2次世界大戦中に志願した日系アメリカ人は、その数3万3千人になるということです。とくに欧州戦線の激戦区で勇猛果敢に戦った442部隊は、右腕を失くしたダニエル・イノウエ上院議員をはじめ、広く知られた存在です。


グラントさんは、Military Intelligence Service (MIS)とよばれるインテリジェンス部門で活躍し、戦後はCIA局員でした。また、日系アメリカ人として最初に閣僚入りしたノーマン・ミネタ元運輸長官も、このMIS出身です。


そのグラントさんには、私が3年前にワシントンに着任した年に知り合ってから、ときおりお目にかかって、いろいろなお話を聞くようになりました。連邦議事堂のすぐそばにある日系アメリカ人メモリアルで開催される、毎年11月の退役軍人記念日に来てみたらとお誘いを受けて、私も参列したこともあります。


 
2008年の退役軍人の日のメモリアルで、グラントさんと私(ウエブサイトには「氏名不詳の女」とキャプションされていますhttp://njamf.com/index.php/veterans-day


そのグラントさんから新年早々のメールです。開けてみると、「新年おめでとう。でも僕の新年は悲しいものになってしまった。今朝、妻が亡くなった。明日の大使公邸の新年会は失礼するから、それを担当者に伝えておいてくれないだろうか。出席の返事をしておきながら現れないのは、失礼になるから」というものでした。


奥さんのミリー・イチカワさんも戦時中は同じMISで活躍した方で、終戦後すぐに占領下の日本に最初に派遣された女性軍人グループの一人だったそうです。


自分が生まれ育った国と、両親の祖国との不運な戦争によって、日系人収容所で青春を過ごし、軍人になることによって自国アメリカに忠誠を誓ったという体験を持つ人が、高齢のために一人ひとりと亡くなっていきます。グラントさんが送ってくれるニュースレターは、毎回誰かの追悼記事で始まっています。


その体験を語ることのできる人たちによる生の声で、次世代アメリカ人たちのために歴史の記憶を残すべきだという思いから、日系アメリカ人がたどった道を、公立高校の歴史の授業で語る運動もDC近郊の2州で起きました。グラントさんもこの運動の中心活動人物です。


日曜日の「ワシントン・ポスト紙」にも、一人の日系アメリカ人女性の追悼記事が掲載されていました。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/16/AR2010011602782.html


亡くなったメイ・アサキ・イシモトさんは、やはり青春時代を日系人収容所で過ごし、戦後は得意の裁縫の腕を活かして、大好きな舞台芸術バレエの衣装を手がけるようになりました。ニューヨーク・シティ・バレエを経て、1973年からは米国でも最高峰のアメリカン・バレエ・シアターで衣装担当部長として多くの著名ダンサーたちの厳しい要求に応え、20年間どの公演の舞台裏にも必ず控えて、衣装の微調整に即応していたとのことです。


メイさんの娘さん(ワシントン・ポスト紙書評欄編集助手)に届いた、ミハイル・バリシニコフからお悔やみの手紙には、メイさんの「細部に至る美的センスにダンサーたちがどれほど芸術的に豊かになれたか」、という感謝の言葉がつづられていたとのことでした。


おりしも昨日は、公民権運動でここワシントンとの縁も深い、マーティン・ルーサー・キング牧師記念日でした。日系米国人に対し、戦時中の財産没収と収容所入りについて、連邦政府が正式に謝罪する法令にサインしたのは、1988年レーガン大統領の時代となってからのことです。


キング牧師が暗殺されて、ちょうど20年後のことでした。



●MISについて興味のある方はこのサイトをご参照ください。http://www.njahs.org/misnorcal/index.htm