《No.30》ベッドフォード・スプリング今昔物語

 広報文化センターの仕事をしていると、さまざまな方から情報提供のお電話をいただきます。たいていは、シニアの方で日本に親しい気持ちを抱いてくださっているアメリカ人たちです。日系人で元大学教授のトミヨさんも、そんなご婦人のひとり。ワシントンDCから車で3時間半ほどのメリーランド州で、ご主人とふたりの引退生活を楽しんでおられます。まだ実際にはお目にかかったことはないのですが、数ヶ月に一度、お電話でおしゃべりをしたり、旅行先のインドネシアからメールが届いたりしています。ありがたいことです。

そのトミヨさんから、「20年のブランクを経て、由緒あるホテルが営業再開をしたから、見に行ったらいかが?」という電話がありました。ペンシルバニア州の静かな田舎町ベッドフォード・スプリングにあるホテルです。しかも、日本との縁もあるというのです。

18世紀当時、ネイティブ・アメリカンには、すでにその鉱泉の存在はよく知られていたようですが、それを発見したアンダーソン医師が1802年に、治療のための温泉保養場をここに開設しました。それが、今のベッドフォード・スプリングの始まりです。「草津よいとこ〜」よろしく、「サラトガより、旧大陸のバーデンより良い温泉!」と歌にもあるそうです。


Bedford Springs

早くも1821年にはジェームス・ブキャノンがここを訪れ、その後の大統領在職中(1857-61)には、大西洋間のケーブルも敷かれ、「夏のホワイト・ハウス」と名づけられたこのホテルで、ブキャノン大統領は3日間にビクトリア女王と40通にわたる電報をやり取りしたという逸話もあります。また、アイゼンハワー大統領の時代まで、合計7人の現職大統領が、避暑地として夏を過ごしたとのことです。キャンプ・デービッドがなければ、今年はオバマ一家が過ごしていたかもしれません。

第2次世界大戦中、ここは米国海軍施設として使われていたのですが、ドイツで捕虜となった日本人外交官等がここに身柄を移され、1945年11月末まで過ごしていたというのです。ホテルの売店で買った『ベッドフォード物語』(ネッド・フレア著)によると、当時の様子がこのように描かれています。

「(当時の)AP電によると“駐独日本大使と彼の同僚たちが昨晩、かの有名な保養地ベッドフォード・スプリングに到着した。米国務省は彼らと126名に上る家族たちを、期限は未定ながら、連合軍捕虜との交換をめざして宿営させる”とし、ニューズウィーク誌は、“地元住民は、不遜な日本人たちがあの有名な400室のホテルで、プールで泳いだり、ゴルフを楽しんだり、優雅な食堂で食事するなんて我慢がならないと、国務省に激しく抗議をし、職員が説明に出かけて来ざるを得なくなった”と伝えた」

結局193人となった日本人たちは、ホテル内の限られた場所しか歩けず、ゴルフはもとより飲酒は禁止され、プールにも蓋がされ、食事もワシントンDCから運ばれた食材でのみ料理され、カフェテリアでまとまって食事をしたとのことでした。

調べてみると、外交官やその家族のほか、当時ドイツで活躍していた、ヴァイオリニストの諏訪根自子さんや指揮者の近衛秀麿氏など芸術家をはじめ、民間人もここで抑留されていたことがわかりました。

実際に訪れたホテルは200年の歴史を誇るだけあり、建物のありとあらゆるところに、往年の宿泊客たちの記念写真やゆかりの展示物がありました。残念ながら、当時の日本人たちの暮らしぶりをうかがえるものは、見つけることができませんでした。つい最近、大型ホテルチェーンに譲渡されたためか、従業員に聞いても詳細を知る人はいませんでした。それでも、1905年に作られた室内プールの温泉水の柔らかさが、何となく心地よい日本を思い起こさせる気分がしたものです。

今回の旅、冒頭のトミヨさんの助言によって、ワシントンから向かう途中のカンバーランドという、かつての産業拠点地にも立ち寄りました。ここは、鉄鋼の街ピッツバーグのお膝元ということもあり、溶鉱炉跡や鉄道、そして運河など当時の盛隆ぶりを偲ばせるものが観光資源として健在でした。日本の富岡製糸工場とも連携していた絹の製糸工場も、今は廃墟となっているようですが、ここの視察はまた次の機会に譲りました。

東京にとっての箱根や軽井沢のように、首都ワシントンDC近郊の街には、何やらまだまだ、“日本がらみ”で面白そうなお話がたくさんありそうです。