《No. 49》 ベストセラーUnbrokenを読んで考える日本人の回復力と義侠心

 まさに忘れた頃にやってくる…。帰国して6週目にして、千年に一度の大地震・津波が日本列島を襲いました。被災者とご関係の方々のご心痛、そして気が遠くなるような復興への道筋を考えると、言葉が出ません。短期的な視点での日再建は 不可能だと思います。日本全体で、海外からも評価を受けた日本人の回復力の強さ(resilience)を発揮していきたいものと、切に願っています。


 そのResilience関連で一つ。ワシントン勤務時代にはできなかったことで、東京でこそできることで、楽しみにしていたことがあります。その一つが、出勤のときの電車内での読書です。帰国前にアマゾン・キンドルで購入しておいたうちの一冊、Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience and Redemptionを先日ようやく 読み終わりました。単行本として購入すれば、500ページ弱になる分厚いものです。



 「ニューヨーク・タイムズ」紙のベストセラー入りして16週目、途中で第2位になったものの、再度第1位になって3週目の記録を更新しています。


http://www.nytimes.com/best-sellers-books/2011-03-20/hardcover-nonfiction/list.html


 これは、第2次世界大戦中に太平洋上に機器の故障で不時着し、47日間漂流したあげく日本軍に捕虜となった米空軍兵士ルイス・ザンペリーニが、いかに日本の収容所で人権上酷い扱いを受け続けたかということが本書の中盤まで描かれています。南太平洋の島から大森、直江津と収容所も転々として、サディスティックでなぜかこのルイスには異常なまでに残虐にあたりちらすワタナベ伍長が登場します。


 太平洋上を簡素な脱出用ボートで漂流し、カモメを捕まえて飢えをしのぐサバイバルの47日間も克明に描かれているのですが、とにかくこの収容所に入ってからの描写が凄まじいのです。誰が読んでも、このワタナベ伍長のことは、人間にあるまじき冷血に描かれています。
 

 主人公のルイスは、陸上中距離の選手としてベルリン・オリンピックにも出場し、メダルこそ逃がしたものの見事なラストスパートを発揮して、ときのヒットラーの関心を得たという人物です。そのルイスの、戦中・戦後を通しての生き残りをかけての戦い、そして不屈の回復力の強さを発揮しての半生、そして宗教心を得てからの復活、そして自分の復讐心に対する赦しの過程が描かれています。現在90歳を越えてなおも健在であること、また長野オリンピックのときには聖火ランナーとして走ったこと、また戦後、ワタナベ伍長が戦犯となりながらも逃亡したまま事業も成功し、老後は豪華なマンションに住み、TV局のインタビューまで受けている場面が描かれています。(ただしわたしは不勉強で、このA級戦犯のなかに、収監されることもなかったワタナベなる人物が実存したのか、まだ調べていません)。


 本書の筆者ローラ・ヒルンブランドさんは、これまたベストセラーで映画化もされた競走馬の物語「シービスケット」の筆者であり、ワシントン在住です。20年以上患っている極度の疲労感に襲われる病気で、外出することもままならないために、自宅にこもったまま、メールや電話を駆使しながら、また多くの支援を得て執筆を完成させたといいます。主人公ルイスへのインタビューだけでも75回、執筆途中でできた外出は、近くのスターバックス・コーヒー店までご主人が運転する車で行ったものの、結局外にも出られず車内で待っていたという具合だったとか。


 筆者のローラ・ヒルンブランド
 


 彼女の筆致はしかし、主人公のルイスはもちろん、ワタナベ伍長も含めたあらゆる登場人物の、当人の気持ちに引き寄せた書きぶりで、臨場感をもって読み進められるところに魅力があります。また、飛行機操縦の技術に至るまで行き届いたリサーチぶりで、また細かい数字を引用した後付もあり、映画を観るかのようにリアルに場面を想像できるため、ぐいぐいと引き込まれて読む進んでいきます。


 驚いたのは、本書キンドル版の後半四分の一がすべて脚注であることです。これも手繰っていくと、私自身かつて関わっていた雑誌『外交フォーラム』(日本語版)からの引用も数箇所あったり、ワシントンDCで知り合いのスミソニアンの職員の名前が出てきたりしたことです。


 今後、どれだけNYタイムズ紙でのベストセラー第一位を更新していくかわかりませんが、日本の出版社がこの翻訳本を出すかどうか、注目していきたいと思います。
 

 なお、これもまた日本で生活している恩恵ですが、友人の編集者からもらった新潮社の「波」を本を読んでいたら、山折哲雄さん執筆による「長谷川伸と日本人 第14回 『捕虜』への眼差しのちがい」が目に入りました。日露戦争の話で、それこそ『坂の上の雲』の時代ですが、『日本捕虜志』には、立派な日本人が描かれています。捕虜となったロシア将校をして、「日本人はどうしてかくまで義侠なのか」と言わしめた日本人の資質、こういう困難のときだからこそ、もう一度思い起こしたいものと思います。


ご参考まで
主人公ルイス・ゼッペリーニについて
http://www.youtube.com/watch?v=uzjN9cu-TDc

(追記)バックナンバーについて

 零下の日が続くワシントンです。小さなアパートの引越しでも、さすがに4年間の生活の蓄積があって、たいへんです。思い切って処分しなければ、移動ができないのはわかっているのに、愛着のあるものが多くて困ります。

 この拙いレポートもブログになる以前には、散発的に友人に勝手にメールで送りつけていたものですが、数人からバックナンバーも読んでみたいという奇特なご要望がありました。

 ここで、2007年から2010年の3年間分(No.1〜No.36)の目次をご紹介しておきます。この部分を読みたいということがありましたら、どうぞご連絡ください。個別にメールなどでお届けします。わたしにはこのブログにバックナンバーを貼り付ける技術がないのです。。。

No.1 07年4月18日 テノールよりチョコレート
No.2 4月26日  ホロコーストを記憶する日
No.3 5月28日  ミニ国連は参観日?
No.4 5月31日  渡辺謙のこと知っている?
No.5 7月19日  対日関心の低下ってほんと?
No.6 8月6日   高校生が観たKabuki
No.7 8月30日  イラク傷病兵の姿に
No.8 10月1日  1964年の贈り物
No.9 11月8日  芸術の秋――展覧会オープニングさまざま
No.10 11月24日  大学で演じられた「手塚治虫」
No.11 12月26日  小学校で見つけた日本
No.12 08年1月27日  DCで楽しむお正月
No.13 2月3日   反逆者・浅野忠信の世界
No.14 3月16日  再び、ケネディセンターでのJAPAN!
No.15 3月30日  さくらとスウィング・ガールズ
No.16 4月14日  桜と芸者と、ニッポン
No.17 5月11日  お茶室を現代アートすると。
No.18 6月15日  時とともに消えるもの、残るもの
No.19 7月1日   ドキュメンタリー監督の誕生Herb & Dorothy
No.20 7月18日  宇宙飛行士、帰還!
No.21 9月22日  現代美術の“日本人”たち
No.22 10月13日  多層的芸術交流の夕べ
No.23 11月11日  ベテランズ・デーの日系軍人たち
No.24 12月8日  クリスマスに風呂敷でUnwrapped!
No.25 09年1月11日  空母二艦さまざま
No.26 2月11日  多くのなかから、ひとつに
No.27 3月9日  外交官になっても編集者だった男
No.28 4月12日  桜祭りのあとで…またお祭り
No.29 5月25日  不況も新型ウィルスも、何のその
No.30 7月5日   ベッドフォード・スプリング今昔物語
No.31 8月19日  PONYOとの約束
No.32 9月3日   ナチス、ユダヤ人、そしてイルカ
No.33 9月8日   私の夏休み課題図書
No.34 10月25日  日本のファッションが注目される理由
No.35 11月1日   小さな未来のお客さまたち
No.36 11月29日  世界一多く映画祭を開催している街で

《No.48》 ひとまず、サヨナラ ワシントン!

 ワシントンに来て4年が経ち、そろそろ帰国する時期になりました。毎月1回この「ワシントン便り」を書き始め、途中からブログのかたちになり48回目の今回が最終回です。

 車で通勤する人が多いこの街が雪で覆われて白くなると、その不便さから、不満の声がよく聞かれます。でも、わたしは雪の降る寒い季節も大好きでした。出勤途中、わが小さなアパートの隣の動物園から裏道に抜けて入るロック・クリーク・パークウェイは、萌えるような緑の時期もきれいですが、うっすら雪化粧も風情があります。わたしが帰国して、もっとも懐かしむ情景のひとつでしょう。


 4年前にワシントンに着任したとき、アメリカ経済は上り調子が続いており円も124円でした。その後の金融危機と不況、失業率の悪化に民主党政権への移行等、実にこの街でアメリカ社会の変化を体験しました。


 アメリカ史上初のアフリカ系大統領の誕生は、やはり大きなできごとでした。しかし、HOPEというフレーズで鼓舞された人々の気持ちが、だんだんとしぼんでいく様子も実感しました。それでもこの国では大統領の存在が、比較的若い国の歴史のなかでも相当大きな部分を占めており、多様な人種と社会の“関心”の求心力となっていることは、引き続き事実です。

 ちょうど今から50年前に就任した、ジョンFケネディ大統領を記念するコンサートが、当地のケネディセンターで開かれました。幸運にも劇場に足を運ぶことができたわたしは、ちょうど2年前にあの凍える日に大統領就任宣誓式をした、オバマ大統領が壇上に立ち、ケネディ大統領の遺訓を語る姿に接することができました。2年前のあの日、会場を埋め尽くした人々からの熱さは新大統領一人に注がれていました。そのことで、人々がひとつになっていたような気がしたものです。

 今回は50年前の大統領へのノスタルジーに会場の人々の気持ちがすがりつつ、次々と登場するアーティストたちの演奏を楽しむことで、ひとつにまとまったような気がしたものです。


(ちなみに大統領の演説中の写真撮影は許可されていました)


 JFKの人気は相当なもので、キャロライン・ケネディとその子どもたち、ケネディ政権当時のホワイトハウスで勤務していた人々までもが、会場で名前を呼びあげられて立ち上がり、会場からの拍手喝采をあびていました。

 ABCテレビの看板キャスターのダイアン・ソーヤーの司会で、コンサートは始まりました。俳優モーガン・フリーマンが朗読する詩とともに世界初演の「Remembering JFK アメリカン・エレジー」が奏でられ、ホワイトハウスに招かれて演奏したパブロ・カザルスに見立てられたヨーヨーマのチェロとバレエ「瀕死の白鳥」のコラボ、そしてポール・サイモンが「サウンドオブサイレンス」を生ギターで歌うなど、面白いプログラムでした。


 今回わたしが注目したのは、ジャズピアニストのハービー・ハンコックのトリオで登場したまだ25歳の女性ベーシストのエスペランザ・スポールディングでした。「追憶The Way We Were」のメロディアスな演奏が彼女のソロで始まったとたんに、わたしはその立ち姿のかっこよさに見とれてしまいました。彼女は、多言語・多文化社会を代表する新しいアメリカの象徴として壇上で輝いていました。オバマ大統領のノーベル平和賞授賞式でも演奏した彼女は、ことしのグラミー賞候補のようで、今後わたしも注目したいと思っています。

 仕事上でもまだ後ろ髪が引かれる思いで、ワシントンを去ることはさびしい限りです。それでも、たとえばこのエスペランザのような新星の登場に、わたし自身の新しいアメリカ社会との出会いを予感しつつ、ひとまずサヨナラ・ワシントンです。

《No.47》共産主義の犠牲者たち;グラーグと労改(ラオガイ)

 ホワイトハウスから北にまっすぐ伸びる16番街は、その都市計画の時代から、教会通りとも、大使館通りとも言われていたそうで、私も運転するのが大好きな美しい通りです。古いれんが造りの教会や中層のアパートが、北上するにしたがって、一戸建ての広い住宅に変わっていきます。メリーランド州に入る寸前には、ゴルフコースもあるようなナショナルパークが管理する公園や、ウォルター・リード陸軍病院の広い敷地が見えてきます。


 さて昨晩は、その16番街にあるリトアニア大使館での催しに行ってきました。ソ連時代のグラーグ(強制収容所)を描いた絵画展のオープニングだったのですが、そのなかに、日本人強制労働者も描かれているから、と友人が誘ってくれたのです。


 画家の名前は、ウクライナ人のニコライ・ゲトマンさん(2004年没)。シベリアの強制収容所で8年を過ごし、故郷に帰って、妻にもひた隠しにしたまま作品を描き続け、40年間で完成したものが50点。ウクライナ独立後も“共産主義”に対する恐怖から、なかなかこの絵の存在を口外しなかったニコライさんですが、自らの死期を感じてぜひとも西側諸国にこの絵を委ねたいと、紆余曲折の後、1997年米国下院でこの50点のコレクションが展示されたのでした。現在、これは当地のシンクタンク、ヘリテージ財団が保有しており、より多くの人の目に触れるべく、今回リトアニア大使館での展示が決まったとのことです。



 リトアニア大使館内に飾られているゲトマンさんの絵画


 実はこの絵画展にあわせて、会場ではトルーマン・レーガン自由勲章受章式も開催されました。主催者は、「共産主義の犠牲者メモリアル財団」です。
http://www.victimsofcommunism.org/


 これまでの受賞者に、米国下院議員時代には、日本に対する従軍慰安婦法案のときに、日本を支援する演説をしてくれたホロコーストの生存者でもあったラントス下院議員、ワレサ元ポーランド大統領、ジェシー・ヘルムズ上院議員、ローマ法王ヨハネパウロ2世などもいます。

 そして今回の受賞者3名のなかに、中国の“労改・ラオガイ”(労働改造所)で19年を過ごし、1985年に40ドルの所持金とともに渡米してきたハリー・ウー(呉弘達)さんがいました。

 例のグラーグの絵画鑑賞に集中していた私は、レセプション会場からマイクを通して「私がここにいる唯一の中国人であり、アジア人であると思います」というスピーチが始まって、思わずそちらのほうに移動したのでした。アジア人ならば、日本人の私もいますよーという気分でした。



会場で受賞のインタビューを受けるウーさん


 不勉強にも、この町に労改基金なるものが存在し、美術館まであるとはまるで知りませんでした。ウーさんは、「“共産主義”は、中国、北朝鮮、ベトナム、キューバに現存しています。私はこの賞を、ラオガイで犠牲になった4000万人の同胞に捧げたい」と、そのスピーチを結びました。


「グラーグ」と「ラオガイ」――。すでに英語として定着し、人々に知られるようになったこれらの不名誉な単語から、忘れられない絵画のイメージとともに、その犠牲者の祈りを新たに見る思いがしました。


○労改基金について http://www.laogai.org/

《No. 46》最新ファッションに身を包んで30年

 ワシントンの大使公邸で、この夏に発表された外務大臣表彰が、オハイオ州シンシナティ在住のメアリー・バスケットさんに10月4日授与されました。この賞は、日本と諸外国との友好親善に貢献した個人・団体に対して授与されるものです。今年は58名の個人に対して表彰がありました。


http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/7/PDF/071201.pdf


 メアリーさんは、シンシナティ美術館で長らく日本美術、とくに近現代の版画を中心に担当していた方で、大学でも教鞭をとるほか、ギャラリーを経営して、アメリカにおける日本の近現代版画の専門家として活躍されてきています。


 日本美術のアメリカにおける振興だけでなく、実は1980年代から、日常的に日本の現代服飾、とくに三宅一生、山本耀司、そして川久保玲のコムデギャルソンのみしか着用しないという生活を30年近く続けていらっしゃるのです。いわば、日本の代表的な先端ファッションを身につけた、歩くマネキンとして暮らしていたと言っても過言ではありません。


 そんなわけで、シンシナティの自宅のクローゼットの中身から選び出したら、そのまま展覧会になったのが、2009年10月から今年4月まで当地テキスタイル美術館で開催されていた「メアリー・バスケット・コレクション;日本の現代ファッション展」だったのでした。


http://www.textilemuseum.org/about/ImageRequestJapaneseFashion.htm


 表彰当日、シンシナティから到着したメアリーさんは、山本耀司の作品を身につけていました(下記の写真、左側がメアリーさん、右は“退屈な”スーツ姿の私)。




 そして、その夜の大臣表彰授与式とレセプションでは、メアリーさんはコムデギャルソンの最新ファッションに身を包んで現れました。伝統的な柄のさまざまな素材の織物のパッチワーク風の超ミニドレスに黒いスパッツ、それにピンクのフラットシューズという大胆な組み合わせです。きれいなシルバーの短髪と赤い縁のユーモラスなメガネが、メアリーさんらしさを強調していました。


(左より、藤崎大使、メアリーさん、メアリーさんのご主人のビル・バスケットさん、藤崎大使夫人)。



 メアリーさんは授賞式後、スライド24点ほど見せながら、3人の日本人デザイナーの衣装のディテールについて、愛情をこめてレクチャーしてくださいました。折りしも、11月3日、文化勲章が三宅一生さんに授与されました。服飾デザイナーとしては、森英恵さんに続いてまだ二人目とのことです。海外にいると、現代日本文化の人気は、もっぱら建築やファッションに集中していることに気がつきます。アメリカだけでなく、世界各地でも同様の現象が起きているのではないでしょうか。


 さて、この日のお客様は、メアリーさんを囲んでファッション談義にいとまがありませんでしたが、このメアリーさんの“コレクション”を可能にした、ご主人のビルさんが「ミスター・バスケット」ならぬ「ミスター・バウチャー(請求書)」として、出席者の女性陣から大人気だったのは予想通りでした。ビルさんの先端的でアバンギャルドなファッションに対する寛容なる理解と、それはそれは大きなお財布があったからこそ、メアリーさんの30年間分の衣装コレクションが形成されたのです。そしてビルさんが、外務大臣表彰をメアリーさん同様に喜んでくれたのは、私たちにとっても嬉しいことでした。

《No. 45》現代建築の現場を二つの新しい視点から

 日本の建築が世界的に高い評価を得ているのは、今に始まったことではありません。今年のプリツカー賞を妹島・西沢コンビのSAANAが受賞したことは、アメリカでも大きく報道されました。しかもここワシントンは、人間が計画して作ったいわば観光都市だけに、建築への関心も高い街といえるでしょう。


 アメリカ建築家協会(AIA)のDCチャプターでは、当地の特色でもある大使館街を活かして、去る9月に建築月間を開催しました。「アジアでは日本だけですが、参加しませんか」、と声がかかったのはまだ去年のことでした。大使館敷地内には、純和風の庭に囲まれたお茶室「一白亭」に、戦前に建てられたネオジョージア様式の旧公邸という、建築的な財産を保有しています。一般公開するたびに、見学希望のアメリカ人で長蛇の列ができ、結局全員を入れることができずに毎回申し訳ない思いをしているので、今回の建築月間には早々参加を決めました。


 これには、オーストリア、スペイン、ドイツ(ゲーテ・インスティトゥート)、スウェーデン、スイス、フランス、メキシコ、イタリアなどの大使館に加え、国立建築美術館も参加しました。9月10日から30日まで、「建築家は世界をどうとらえているのか見てみよう」というテーマのもと、各種イベントが各国大使館を会場として開催されたのです。期間中30件以上のイベント、1500人の建築関係者をはじめ一般の方々が参加したようです。

http://www.aiadc.com/home.asp

 われわれ日本大使館では、9月23・24日の両日に2件企画しました。まず23日は、大使館敷地内の旧公邸とお茶室の一般公開にあわせ、夜は専門家による講演会。AIAの全世界版ともいえるのでしょうか、UIA(国際建築家連合)の2011年の東京大会の運営部会委員長を務める、安井建築設計事務所社長の佐野吉彦さんとは、5年前に東京で知り合ったのですが、仕事の関係で米国に出張に見える機会があればとお誘いしたところ、ご快諾くださいました。


 佐野さんは、サントリーホールや新しい羽田空港ターミナルの設計をされた建築家です。そして今回選ばれたテーマが、「日本の現代宗教建築比較」。まるで予想もしていなかった視点でした。旧公邸内大サロンの70席は、あっという間に予約で満杯になりました。佐野さんの講演は、台地にある氷川神社・日枝神社と海に面する住吉神社、世界遺産の京都西本願寺に独特の意匠の築地本願寺、徳川家の上野寛永寺に庶民的な浅草寺、目白の東京カテドラルにお茶の水のニコライ堂、さらには麻布台の霊友会会館など、次から次への展開されるユニークな対比と、佐野さんのユーモラスなお人柄による話術で、あっという間の1時間が終了しました。

http://www.yasui-archi.co.jp/yasui/20100929.html


 翌日9月24日は、場所を代えて広報文化センターの講堂でのイベントとしました。講演者は鈴木弘之さん。ファッションデザイナー・コシノジュンコさんのご主人さまですが、写真家として、最近は都市景観、なかでも高層建築や高速道路の工事現場の白黒の作品を多く撮影されています。


 3年前に当地のケネディセンターで開催された日本文化の祭典JAPAN!で、華麗なファッションショーを開いたコシノ・ジュンコさんと一緒に来られたご縁があります。同センターの地下駐車場に大きなパネル仕立てで、3年後の今でもまだ鈴木さんの作品は残っています。
 

 夏休みに一時東京に里帰りをしたときに、私は青山骨董通りの事務所を訪ねて、ワシントンでお見せくださる作品について、相談をしました。そのときに、鈴木さんがデモで作っておいてくれた映画「ターミネーター」の音楽付きのスライドーショーが、シャープでとてもよかったので、そのまま上映してもらうことにしました。初台の首都高の巨大な橋げた、新宿駅の地下深くでの地下鉄工事、東京駅から北部に延びる在来新幹線の線路上に加わる線路、そして羽田空港の新しい滑走路――東京生まれの私が知らない風景が、そこにはありました。名づけてTokyo Under Construction。



 さて講演会当日、クールな風貌で、シャープな映像をわが広報文化センターの会場で満席のアメリカ人たちに見せてくれた鈴木さんです。が、しかしそのメッセージの奥にあるのは、私の予想を超えて、工事現場を実際に目のあたりにすることによって共感できる、土木技術に従事する人たちへの温かい応援でした。「安全第一」をモットーに、狭い国土のなかで完璧な仕事を期する日本人の誇り――そんな気持ちを共有する、前日の講演者の佐野さんも加わって、鈴木さんの講演会終了後は、参加者のアメリカ人たちと、ロビーでいつまでも談笑が続いていました。


 時あたかも、東京羽田国際空港ターミナルがオープンすると聞きました。図らずも、お二人の講演者の印縁がここでつながっていたのも、なにか日本の新たな国際化の象徴のような気がしてなりませんでした。

《No. 44》日本の地下鉄車両がワシントンを走る?

 この夏、久しぶりに帰国して体験した113年ぶりという東京の暑さは、たいへんなものでした。しかし、ワシントンでの生活と打って変わって、自動車を使わず、大汗をかきながらも、地下鉄で移動する日々で感じたのは、東京の地下鉄の安心感でした。


 運行時間の正確さ、ユーザーにとって懇切丁寧な各種表示、切符やパスを購入する自動販売機の便利さ・信頼度の高さ、細分化されて網の目のように広がる出入り口、などなど列挙していけばきりがありません。ワシントンは、全米でも第3位といわれる地下鉄網を張り巡らした都市ということですが、東京との比較においては、利用者からの視点からみれば、雲泥の差があります。


 昨年6月、ワシントンで起きた地下鉄事故では、7名もの人命が失われ60名以上の負傷者が出る大惨事があり、その事故調査委員会の報告がこの8月に発表されたばかりでした。自動制御装置の問題で、最新型車両とシステムになっていれば防げたはずというものだったのです。


 私自身、東京でもワシントンでも地下鉄をよく利用するので、日本の川崎重工がワシントンDCを走る地下鉄車両の受注をしたというニュースは、たいへん嬉しいものでした。

http://www.khi.co.jp/khi_news/2010data/c3100528-1.htm

 そんなとき、ワシントン首都圏交通局WMATA(“ウォーマタ”と発音します)から、連絡がきました。今回の車両発注を期に、日本に役員たちが出張するが、これまで日本のことは何も知らなかったので、出張前にぜひ日本の基礎知識について学びたいというのです。できれば簡単なビジネスマナー(名刺交換や挨拶など)も教えてもらいたいと。


 日本の車両製造の高い技術力と価格の競争力を評価したからこそ、今回の発注になったというだけでなく、さらにはビジネスの相手国の日本文化について学びたいという意欲をもってくれたことに、むしろ私たちは感謝の念すら覚えたのでした。


 折りしも、昨年来リコール騒ぎで信頼が失墜していたと思われていた日本車でしたが、むしろ問題はユーザーのほうにあった可能性が高いという事実が徐々に明らかになるにしたがって、再び日本企業トヨタのイメージがアップし始めています。


 車両の大量受注をひとつの良いきっかけとして、日本という国家がふたたび「確かな技術力」「高い安全性」という名実を取り戻すことになればと、私たちの文化講習会企画に一段と力が入ったのは、言うまでもありませんでした。その日、結局WMATAの役員は30人近く集まり、その日の講習会は、日本のお弁当を食べる実習付きで、たいへん和やかなものとなりました。


 ワシントン市内の地下鉄駅の名前にもなっている動物園ナショナル・ズーの人気者パンダは、地下鉄切符のイメージキャラクターとして、すっかり定着しています。

 パンダといえば、中国政府からアメリカ市民への贈り物として、ここワシントンでも理解されています。いっそのこと、これも、この7月に広島の動物園から贈られた日本のオオサンショウウオに交替してくれないかしら、と密やかな野望を抱きつつ、近くに住む私は、今週末も朝の散歩に動物園に出かけます。



 ワシントンの地下鉄の駅は、どの駅も同じデザイン。間接照明のために全体に暗い印象で、核シェルターのようにも見えますが、デザインとしては美しくもあります。