《No.35》 小さな未来のお客さまたち

 大使館の広報文化センター(JICC)では、スクールプログラムを展開しています。地元のワシントンDCと近隣の2州(メリーランド州、バージニア州)にある小中高の学校から、年間約100件、合計4,500名の子どもたちが、黄色のスクールバスに乗ってやってくるのです。たいてい社会科の異文化教育の時間のなかで、先生が付き添いの保護者とともに子どもたちを引率し、朝10時半ころにやってきます。

 講師役は、わがセンターのアメリカ人職員で、日本に英語の補助教員などとして派遣されるJETプログラムの経験者です。こちらで作成したパワーポイント・DVDや文化啓発品などを利用しながら、日本についての基礎知識を披露しつつ、90分後には、「こんにちわ」「ありがとう」など簡単な日本語も覚えて帰っていく、というプログラムです。いわば、日本文化体験の入門編といった具合です。

 不況の波は実はこんなプログラムにも忍び寄っています。学校が校外活動のために使うスクールバスは有料のため、その費用を捻出できない学校も増えてきているのです。そのため、参加する学校数が去年比で約3割ほど減っています。こちらも知恵を絞り、自分たちから出前で学校を訪問させていただいたり、また受け入れる子どもたちの年齢層も広げて幼稚園から大学院生まで、また最近は老人ホームや特殊教育施設訪問など、試行錯誤で始めてみました。

 先日、初めて幼稚園生をお迎えしました。正直なところ5歳、6歳の幼い子どもたちに、日本という遠い外国のお話をして、いったいどれだけ覚えていてもらえるのだろうか、そんな疑問もないわけではありませんでした。しかし、とにかく挑戦。さっそく、バージニア州の英才教育で著名なマウント・バーノン・コミュニティ・スクールの幼稚園からかわいい13名のお客さまがやってきました。

 これは驚きました。小学生高学年でもなかなか集中力が持続できない60分ですが、この幼児たちの賢いこと! 折紙、ぬりえと次々と子どもたちに呼びかけて一緒にやっていくと、しっかりと講師役の両目を見て、真剣に聞いている姿などは、ちょっとした日本の中学受験生のような感じすらしたものです。

 桃太郎の紙芝居では、まさに日本風のいでたちのおじいさんとおばあさんのお話に、目を輝かせて聞き入り、鬼がでてくるあたりではワォーと小さく叫びながら興奮して観ているのです。ここでは、コンピューター・ゲームもWiiも必要ありません。講師の紙芝居の声色だけで、これほど熱中して喜んで観てくれるなんて、衝撃的な驚きでした。幼いからまだわからないかも――などと、一瞬でも考えたことを、私は恥じたのでした。

 同じ日の午後、今度は私も車を運転して、同じDC市内ですが、ポトマック川を渡って北東区の少し治安の悪い場所にある小学校を訪ねました。小学校がある一区画の角には、驚いたことに酒屋が営業しており、昼間から所在なさげに酒気を帯びた大人が3,4人たむろしています。

 このオア小学校は、大使館がここ20年以上も続けて参加しているEmbassy Adoption Programで昨年、“養子縁組”を結んだ学校です。http://www.wpas.org/educcomm/programsforyoungpeople/embassyadoptionprogram.aspx

 養子縁組を結ぶと、その年の約6カ月間にわたり、ほぼ毎週、各国の外交官がこの小学校の教室を訪ねるか、子どもたちが大使館を訪ねてきて、一緒にその国の文化・事情について学ぶわけです。学年が終了する5月には、こういう小学校が一堂に会してミニ国連を開催して、その年のトピックで国連総会よろしく、各国大使となった6年生たちが討論会をするのです(2年前の様子をこの「ワシントン便りNo.3」でご報告したこともあります)。

 今回は、私が個人的に会員であるロータリークラブの活動の一環で、英語の辞書を小学3年生に届けよう、というもので訪問したのです。貧富の差の激しいDC地区ですから、辞書はもちろんコンピューターや楽器など高価なものをふんだんに両親から買ってもらえる小学校に辞書を届けても無駄になると思い、私はあえてこのEmbassy Adoption Programで、その状態を知っているオア小学校に決めたのでした。



 写真でご覧のように、ひとりひとりに辞書を手渡すと、教室は子どもたちのエネルギーであふれかえってしまいました。先生がお気の毒なくらいに、チリンチリンとベルをしきりに鳴らしながら、「ホラー、静かにしなさーい」と注意を飛ばしていました。まったく午前中のお行儀のよい幼稚園生との対比が、面白いくらいです。

 しかし考えてみれば、日本人の小学生も3年生あたりの年齢は「ギャング・エイジ」とも呼ばれるいたずら盛り。気を取り直して、私も「では皆さん、まず表紙を開けて、自分の名前をそこに書いてちょうだい。これは学校の辞書ではありません。あなた自身の辞書なんですよ。家に持って帰ってもいいし、学校で使ってもいいのよ」と言うと、また大はしゃぎ。

「ためしに、ひとつ単語を調べてみようか。“タイフーン”はどう?」と聞いてみると、先生が「さあ、”タイ“の発音で始まるのは、どういうスペルだった?」と問いかけると、すぐさま「T-Y-」との答えが返ってきました。そうすると、あっという間に正解が辞書のなかで探すことができて、子どもたちの嬉しそうなこと。

「ちなみに、タイフーンは、日本語の台風から来ているんだよー」と私が言うと、また大はしゃぎになって、「ジャパンって何? どこ?」と興味を示してきました。しめしめ、これでこの3年生は、一瞬たりともひとまず日本に興味を持ってくれただしょうか。「3年後に6年生になったら、Embassy Adoption Programでまた会えるかもね。それまでこの辞書でたくさん勉強してね」と言って、施錠された校舎を後にしました。さっきの酒屋の前では、心なしか、たむろしている人数が増えていたようでした。

本日のワシントン・ポスト紙で、ブルッキングスの調査として「わが国が抱えるチャンスに関する5つの誤解」という記事で、アメリカ社会の最下層に属する子どもたちが、成長して上位の階層に移動できるのは35パーセントしかいない、と伝えていました。このアメリカで、貧困に暮らす子どもの多くが、そのままで人生を終えるとは、何と悲しいことでしょうか。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/10/30/AR2009103001845.html