《No.37》 ある日系アメリカ人二人の死から

大使公邸で毎年開催される在留邦人と日系アメリカ人をご招待しての新年会の前日、一通の電子メールが届きました。週に2回という驚くべきペースで、次々にニュースレターを発行している、90歳を超えるグラント・イチカワさんからのメールです。グラントさんは、日系アメリカ人退役軍人連合(JAVA)でニュースレターRound Robinの編集を担当しているのです。


第2次世界大戦中に志願した日系アメリカ人は、その数3万3千人になるということです。とくに欧州戦線の激戦区で勇猛果敢に戦った442部隊は、右腕を失くしたダニエル・イノウエ上院議員をはじめ、広く知られた存在です。


グラントさんは、Military Intelligence Service (MIS)とよばれるインテリジェンス部門で活躍し、戦後はCIA局員でした。また、日系アメリカ人として最初に閣僚入りしたノーマン・ミネタ元運輸長官も、このMIS出身です。


そのグラントさんには、私が3年前にワシントンに着任した年に知り合ってから、ときおりお目にかかって、いろいろなお話を聞くようになりました。連邦議事堂のすぐそばにある日系アメリカ人メモリアルで開催される、毎年11月の退役軍人記念日に来てみたらとお誘いを受けて、私も参列したこともあります。


 
2008年の退役軍人の日のメモリアルで、グラントさんと私(ウエブサイトには「氏名不詳の女」とキャプションされていますhttp://njamf.com/index.php/veterans-day


そのグラントさんから新年早々のメールです。開けてみると、「新年おめでとう。でも僕の新年は悲しいものになってしまった。今朝、妻が亡くなった。明日の大使公邸の新年会は失礼するから、それを担当者に伝えておいてくれないだろうか。出席の返事をしておきながら現れないのは、失礼になるから」というものでした。


奥さんのミリー・イチカワさんも戦時中は同じMISで活躍した方で、終戦後すぐに占領下の日本に最初に派遣された女性軍人グループの一人だったそうです。


自分が生まれ育った国と、両親の祖国との不運な戦争によって、日系人収容所で青春を過ごし、軍人になることによって自国アメリカに忠誠を誓ったという体験を持つ人が、高齢のために一人ひとりと亡くなっていきます。グラントさんが送ってくれるニュースレターは、毎回誰かの追悼記事で始まっています。


その体験を語ることのできる人たちによる生の声で、次世代アメリカ人たちのために歴史の記憶を残すべきだという思いから、日系アメリカ人がたどった道を、公立高校の歴史の授業で語る運動もDC近郊の2州で起きました。グラントさんもこの運動の中心活動人物です。


日曜日の「ワシントン・ポスト紙」にも、一人の日系アメリカ人女性の追悼記事が掲載されていました。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/16/AR2010011602782.html


亡くなったメイ・アサキ・イシモトさんは、やはり青春時代を日系人収容所で過ごし、戦後は得意の裁縫の腕を活かして、大好きな舞台芸術バレエの衣装を手がけるようになりました。ニューヨーク・シティ・バレエを経て、1973年からは米国でも最高峰のアメリカン・バレエ・シアターで衣装担当部長として多くの著名ダンサーたちの厳しい要求に応え、20年間どの公演の舞台裏にも必ず控えて、衣装の微調整に即応していたとのことです。


メイさんの娘さん(ワシントン・ポスト紙書評欄編集助手)に届いた、ミハイル・バリシニコフからお悔やみの手紙には、メイさんの「細部に至る美的センスにダンサーたちがどれほど芸術的に豊かになれたか」、という感謝の言葉がつづられていたとのことでした。


おりしも昨日は、公民権運動でここワシントンとの縁も深い、マーティン・ルーサー・キング牧師記念日でした。日系米国人に対し、戦時中の財産没収と収容所入りについて、連邦政府が正式に謝罪する法令にサインしたのは、1988年レーガン大統領の時代となってからのことです。


キング牧師が暗殺されて、ちょうど20年後のことでした。



●MISについて興味のある方はこのサイトをご参照ください。http://www.njahs.org/misnorcal/index.htm