《No.41》高峰譲吉博士と桜、松、楓、そして菊

 人類にとって福音となった新薬の開発――しかも今から100年前に作られた薬で、現在でも世界中で使われているものは、3種類しかないそうです。アスピリン、アドレナリン(止血剤)、そしてタカジアスターゼ(消化剤)がその三つですが、そのうちの二つまでもが、日本人化学者の高峰譲吉博士の手による発見です。


 私も、映画「さくらさくら――サムライ化学者・高峰譲吉の人生」の市川徹監督から教えていただくまで、まったく知りませんでした。この映画が3月末に、博士の故郷である富山・石川で公開されたことをインターネットで知った私は、無理を承知で配給会社に連絡をしてみました。4月中旬に、ワシントンDCで、しかも英語字幕版で上映できないだろうか、と。意外なことに、ロサンゼルスの映画祭に出品するために、すでに英語版は完成しており、DCでの上映会もぜひにという返事が、まもなく戻ってきたのは、すでに当地の全米桜祭りが始まっていた3月末でした。


 それから、監督ご自身も日本から飛んできていただくことになり、われわれの広報文化センターでの上映会と監督による舞台挨拶という4月14日のプログラムが、桜祭りの余韻が覚めやらぬうちに設定されることになりました(この上映会の模様は、北國新聞4月16日付けに掲載されました)。
 
 映画「さくらさくら」HP http://sakurasakura.jp/
 
 まだ国際結婚そのものがほとんど無い時代に、米国南部の女性と結婚し38歳になってからアメリカで暮らし始めた高峰博士の人生は、まさに明治維新後の日本の近代化・産業化の歴史そのもののようです。薬の特許のおかげで巨万の富を得た博士とキャロラインは、ニューヨークはリバーサイドの豪邸に住み、日米のまさに架け橋として、知的・文化交流分野の大パトロンとなりました。ワシントンとNYそれぞれに3000本の桜の苗木を寄贈し、ジャパン・ソサエティや日本クラブ設立の際の資金提供だけでなく、日米の技術交流の仲介者としてさまざまな局面で仲介者ともなりました。


 ニューヨーク郊外に、映画でも触れられた高峰博士が建てた迎賓館・松楓殿が現存するという話は、数年前の雑誌『フォーサイト』で北岡伸一先生(当時の国連大使)がエッセイでお書きになっていたので、覚えていました。知己を頼って、現在の所有者の滝富夫さんに連絡を最初にとったのは、昨年の晩秋だったのですが、厳冬を避けて春を待ち、今回実際に見せていただくことになりました。


 マンハッタンから車でルート17号、42号とキャッツキル・マウンテン方面に約2時間北上すると、モンティチェッロ地区の小さな街フォレストバーグに、この松楓殿は静かな佇まいを見せていました。この街に入ったとたん、街道は松林が続き、なんとなく日光や那須のあたりの雰囲気を漂わせていました。



 そして一対の石灯籠にはさまれた私有地入り口に到着すると、そこはまるで米国ニューヨーク州とは思えない別世界でした。




 建物は1904年、セントルイスで世界博覧会が開催されたときに、日本政府がパヴィリオンとして建造したものが、そのまま解体されて移築されたわけです。そのあらましは、このウエブサイトで読むことができます。著者のブレンダン・ギルは、雑誌『ニューヨーカー』の常連執筆者で、建築関係の評論では他に追随を許さない人でした。


http://shofuden.com/index.php?page=imperial



 
 室内の柱に残る菊の御紋――。セントルイス博覧会で日本館として出展され、日本を象徴する御紋をつけた邸宅を政府から譲り受けて、この松と楓の地に移築した高峰博士は、どのような眼差しで、この菊を眺めていたのでしょうか。博士の日米関係のため、平和を願い捧げた情熱を考えるとき、祖国を離れているからこその一層の志の高さがあったのではないかと、私も遠く思いを馳せた一日となりました