《No.36》 世界一多く映画祭を開催している街で

 ワシントンDC市内の人口、約60万人弱――大国の首都ながら、とても小さな街です。ただ、ポトマック川をはさんだバージニア州北部、またDCとは陸続きでボルティモア近郊まで延びる通勤圏を含む、いわゆるワシントン・メトロポリタン圏とすると、人口も800万人に達する大きな地域となります。

 このメトロポリタン圏ですが、実は全米でも第3位の映画・メディア産業経済圏となるそうです。映画のみならず、ケーブルTVやニュース映像の製作会社、コンピュータ・ゲーム開発会社やアニメ制作会社など、映像にまつわる商業的活動をしている組織を拾っていくと、政治の街・ワシントンDCとして理解している向きには意外な結果だと思います。
 
 これは住人にとっても意外な数字なようでして、たとえばこの圏内では年間58件もの映画祭が開催されており、これを人口一人あたりで計算すると、その数たるや、全米どころか世界一の頻度とのことです。たいてい1週間から2週間続くのが映画祭とすれば、毎週何か映画祭が開催されいている計算になるわけです。http://dcfilm.org/support/

 当地のAFI(American Film Institute) Silver Theatre and Cultural Centerで、2週間にわたって開催された第22回欧州共同体映画祭(25カ国39作品が参加)もそんなひとつです。11月5日のオープニングでは、駐米EU代表部の代表であるギリシャの外交官が挨拶をして、スウェーデン・デンマーク・ドイツ合作作品「マンモス」で開幕しました。
http://www.afi.com/silver/new/nowplaying/EUshowcase/default.aspx

 AFIは1967年、米国の主要産業である映画の保護・育成のために全米芸術基金(NEA)やフォード財団等の拠出により、ロサンゼルスで設立された文化教育機関です。その東部唯一の拠点として、ここワシントンDC郊外メリーランド州シルバー・スプリングにできたのが、通称AFIシルバーと呼ばれるこの劇場で、最新の映写技術を備えた劇場と教育センターをかかえています

 今回の欧州連合映画祭の出品作品のひとつとして、人知れず、日本にも関連する作品がありました。独・仏・中合作の映画「ジョン・ラーベ」で、私もさっそく見てきました。ジーメンス社南京事務所長を務め、「中国のシンドラー」とも呼ばれたジョン・ラーベ氏の日記The Good Man of Nanking: The Diaries of John Rabe (1997年発刊、邦題は『南京の真実』)に基づいて制作された作品です。今年2月にベルリン国際映画祭で初公開され、また、4月には、ドイツや中国でも劇場公開されている作品です。

 日本人俳優の香川照之(朝香宮鳩彦公・役)や柄本明(陸軍大将松井石根・役)も起用されているるものの、日本国内では配給会社が決まらず、公開されていないと聞いています。

 いわゆる南京虐殺関連の内容ですから、正直なところ、この映画を見に行くとき、中国系アメリカ人観客が多く鑑賞に来ているかもしれない、という不安がありました。が、これはまったくの杞憂で、200人収容の会場に観客は50名程度、アジア系は会場を見回しても私ひとりでした。

 映画が始まると、長年、中国に暮らすドイツ人ラーベ氏も、中国人相手に生活するのは厄介なことだと、ユーモアたっぷりに愚痴る場面もあって、笑いが会場から聞こえてきました。が、そのうち、日本軍の残酷無比なる所業が描かれ始めると、会場は重苦しい雰囲気に包まれました。知識の無い一般米国人が鑑賞すれば、必ずや日本人総体として、嫌いになるだろうなあ、と感じました。エンドロールに、主人公ラーベ氏のドイツ帰国後の足跡が文章で淡々と紹介され、その後「いまだに日本政府から正式の謝罪が無いままになっている」という一文が写し出され、映画は終了します。

 私自身、非常に重苦しい気分で会場を後にしました。よほど私の姿がしょげ返っていたのでしょう、同行してくれた欧州人の友人曰く、「ドイツもアメリカ政府も、謝罪にかけてはうまく立ち振る舞っているから、この点では、日本人の生真面目さがうまく作用していないね」と、慰めてくれたほどでした。

 さて、翌日、週末のニューヨークタイムズ紙に目を通していたら、イッセー尾形が昭和天皇を演じたロシア映画「太陽」(2005年)が、いよいよNYで劇場公開されるという記事を目にしました。そして発表から4年後に、ここアメリカで上映されることの意味とは何だろう、と考えなおしたものです。

 ちなみに、今回の映画「ジョン・ラーベ」ですが、AFIシルバー映画担当プログラマーのヒッチコック氏に問い合わせたところ、アメリカにおける劇場公開は、カリフォルニア州に本部があり、中国系米国人によって創立された小さな配給会社によって、2010年上映される予定だが、その劇場数はきわめて限られたものになる見込みだよ、と、これまた日本人の私に対する遠慮がそうさせるのか、何か秘密を教えてくれるように、つぶやいてくれたのでした。

《No.35》 小さな未来のお客さまたち

 大使館の広報文化センター(JICC)では、スクールプログラムを展開しています。地元のワシントンDCと近隣の2州(メリーランド州、バージニア州)にある小中高の学校から、年間約100件、合計4,500名の子どもたちが、黄色のスクールバスに乗ってやってくるのです。たいてい社会科の異文化教育の時間のなかで、先生が付き添いの保護者とともに子どもたちを引率し、朝10時半ころにやってきます。

 講師役は、わがセンターのアメリカ人職員で、日本に英語の補助教員などとして派遣されるJETプログラムの経験者です。こちらで作成したパワーポイント・DVDや文化啓発品などを利用しながら、日本についての基礎知識を披露しつつ、90分後には、「こんにちわ」「ありがとう」など簡単な日本語も覚えて帰っていく、というプログラムです。いわば、日本文化体験の入門編といった具合です。

 不況の波は実はこんなプログラムにも忍び寄っています。学校が校外活動のために使うスクールバスは有料のため、その費用を捻出できない学校も増えてきているのです。そのため、参加する学校数が去年比で約3割ほど減っています。こちらも知恵を絞り、自分たちから出前で学校を訪問させていただいたり、また受け入れる子どもたちの年齢層も広げて幼稚園から大学院生まで、また最近は老人ホームや特殊教育施設訪問など、試行錯誤で始めてみました。

 先日、初めて幼稚園生をお迎えしました。正直なところ5歳、6歳の幼い子どもたちに、日本という遠い外国のお話をして、いったいどれだけ覚えていてもらえるのだろうか、そんな疑問もないわけではありませんでした。しかし、とにかく挑戦。さっそく、バージニア州の英才教育で著名なマウント・バーノン・コミュニティ・スクールの幼稚園からかわいい13名のお客さまがやってきました。

 これは驚きました。小学生高学年でもなかなか集中力が持続できない60分ですが、この幼児たちの賢いこと! 折紙、ぬりえと次々と子どもたちに呼びかけて一緒にやっていくと、しっかりと講師役の両目を見て、真剣に聞いている姿などは、ちょっとした日本の中学受験生のような感じすらしたものです。

 桃太郎の紙芝居では、まさに日本風のいでたちのおじいさんとおばあさんのお話に、目を輝かせて聞き入り、鬼がでてくるあたりではワォーと小さく叫びながら興奮して観ているのです。ここでは、コンピューター・ゲームもWiiも必要ありません。講師の紙芝居の声色だけで、これほど熱中して喜んで観てくれるなんて、衝撃的な驚きでした。幼いからまだわからないかも――などと、一瞬でも考えたことを、私は恥じたのでした。

 同じ日の午後、今度は私も車を運転して、同じDC市内ですが、ポトマック川を渡って北東区の少し治安の悪い場所にある小学校を訪ねました。小学校がある一区画の角には、驚いたことに酒屋が営業しており、昼間から所在なさげに酒気を帯びた大人が3,4人たむろしています。

 このオア小学校は、大使館がここ20年以上も続けて参加しているEmbassy Adoption Programで昨年、“養子縁組”を結んだ学校です。http://www.wpas.org/educcomm/programsforyoungpeople/embassyadoptionprogram.aspx

 養子縁組を結ぶと、その年の約6カ月間にわたり、ほぼ毎週、各国の外交官がこの小学校の教室を訪ねるか、子どもたちが大使館を訪ねてきて、一緒にその国の文化・事情について学ぶわけです。学年が終了する5月には、こういう小学校が一堂に会してミニ国連を開催して、その年のトピックで国連総会よろしく、各国大使となった6年生たちが討論会をするのです(2年前の様子をこの「ワシントン便りNo.3」でご報告したこともあります)。

 今回は、私が個人的に会員であるロータリークラブの活動の一環で、英語の辞書を小学3年生に届けよう、というもので訪問したのです。貧富の差の激しいDC地区ですから、辞書はもちろんコンピューターや楽器など高価なものをふんだんに両親から買ってもらえる小学校に辞書を届けても無駄になると思い、私はあえてこのEmbassy Adoption Programで、その状態を知っているオア小学校に決めたのでした。



 写真でご覧のように、ひとりひとりに辞書を手渡すと、教室は子どもたちのエネルギーであふれかえってしまいました。先生がお気の毒なくらいに、チリンチリンとベルをしきりに鳴らしながら、「ホラー、静かにしなさーい」と注意を飛ばしていました。まったく午前中のお行儀のよい幼稚園生との対比が、面白いくらいです。

 しかし考えてみれば、日本人の小学生も3年生あたりの年齢は「ギャング・エイジ」とも呼ばれるいたずら盛り。気を取り直して、私も「では皆さん、まず表紙を開けて、自分の名前をそこに書いてちょうだい。これは学校の辞書ではありません。あなた自身の辞書なんですよ。家に持って帰ってもいいし、学校で使ってもいいのよ」と言うと、また大はしゃぎ。

「ためしに、ひとつ単語を調べてみようか。“タイフーン”はどう?」と聞いてみると、先生が「さあ、”タイ“の発音で始まるのは、どういうスペルだった?」と問いかけると、すぐさま「T-Y-」との答えが返ってきました。そうすると、あっという間に正解が辞書のなかで探すことができて、子どもたちの嬉しそうなこと。

「ちなみに、タイフーンは、日本語の台風から来ているんだよー」と私が言うと、また大はしゃぎになって、「ジャパンって何? どこ?」と興味を示してきました。しめしめ、これでこの3年生は、一瞬たりともひとまず日本に興味を持ってくれただしょうか。「3年後に6年生になったら、Embassy Adoption Programでまた会えるかもね。それまでこの辞書でたくさん勉強してね」と言って、施錠された校舎を後にしました。さっきの酒屋の前では、心なしか、たむろしている人数が増えていたようでした。

本日のワシントン・ポスト紙で、ブルッキングスの調査として「わが国が抱えるチャンスに関する5つの誤解」という記事で、アメリカ社会の最下層に属する子どもたちが、成長して上位の階層に移動できるのは35パーセントしかいない、と伝えていました。このアメリカで、貧困に暮らす子どもの多くが、そのままで人生を終えるとは、何と悲しいことでしょうか。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/10/30/AR2009103001845.html

《No.34》日本のファッションが注目される理由

アメリカ広しと言えども、織物を専門とする美術館は、ここワシントンDCにあるテキスタイル美術館(The Textile Museum)だけということです。鎮痛剤の「バファリン」で、日本人にもなじみの深い医薬品会社ブリストル・マイヤーズ社創設者のひとり、ジョージ・ヒューイット・マイヤーズさんの個人の絨毯コレクションから始まった美術館です。

ワシントンでも、別名エンバシー・ロウと呼ばれる大使館街があるマサチューセッツ通りから、一本住宅街に入ったところに、この美術館はあります。もともとマイヤーズ氏の私邸として建てられたこの建物が、テキスタイル専門の美術館となったのは1925年のこと。マイヤーズさんが、アメリカと西欧の織物は除外し、その他の地域のものを集めるという方針を決めたために、現在もその所蔵品は、東半球と西半球という大きな地域的なくくりによってカテゴリー化されています。約335種の織物1万8千点にのぼる収蔵品と、繊維に関する文献ばかりが収集された図書館が併設されています。

ここの東半球部門のキュレーターをつとめるリー・タルボットさんはもともと朝鮮半島の織物の専門家で、ソウル留学経験者でもあります。そのリーさんとは、かねてよりさまざま情報交換をしており、私たちの広報文化センターで日本人藍染作家の展覧会をしたときに、その作品を美術館に収蔵してもらうなどのご縁に結びつけることができました。

さて、この美術館で先週末から始まったのが、「現代日本のファッション展―メアリー・バスケット・コレクションより」という三宅一生、山本耀司、川久保玲の作品展です。ここでも、ファッションとしての衣装展を企画するのは初めてとのこと。しかもユニークなのは、実際にこれを日常に着用していたアメリカ人女性のワードローブからそのまま出てきたものを、展覧会にする、という企画なのです。

考えてみれば、美術展を企画するのに、こんなすばらしいアイデアはありません。昨今、どこの美術館も企画展のために全世界から重要な作品を集めてくるための搬入費・保険料が工面できずに、自分の美術館の収蔵品を見直していかに目新しい企画を出せるか、といういわば知恵の出し合いになっているとのことです。一人のコレクター、しかも実際に身に着けていたものをそのままアートとして展示するというは、デザイナーの力量あってのことだけに、それが日本人のそれで始まったこと自体が、すばらしいことです。

このメアリー・バスケットさん、中西部シンシナティ在住で、かつて美術館で版画のキュレーターをしており、その後、独立して日本の現代アートのディーラーとして活躍されています。80年代から、身に着用するものはすべて、日本のブランドと決めており、しかもパリ・コレの時期にわざわざパリで購入するという念の入りようなのです。

今朝のワシントン・ポスト紙でも記事に取り上げられているように、「いったいどこにこういった衣装を着ていくのか」という疑問に、メアリーさんの「どこにでも!」と答えられるその心眼とセンスに感服しました。つまり、何が選択されたかという目に見える結果ではなく、何をどのように選んでいくか、行為そのものが重要であり、それこそがファッションの主張なのです。

私もよくアメリカ人に「日本人のデザイン力が、世界で評価されている理由はなんでしょう?」と質問されますが、その答えはこういうところにあるのかもしれません。

ワシントン・ポスト紙の記事
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/10/23/AR2009102300167.html

《No.33》私の夏休み課題図書

 ワシントン・ポスト紙の外交担当編集委員のジム・ホグランド夫人、ジェーン・スタントン・ヒッチコックの小説Mortal Friends(「不倶戴天の友」とでも訳しましょうか)がこの初夏に出版されました。彼女はすでにNYを舞台とした小説を数冊発表しており、今回は初めてのワシントンDCを設定としたものです。本の献辞にも、「私をワシントンに連れてきてくれたジムへ」となっています。出版記念パーティがあり社交界で大きな話題となったときに、私も夏休みに読もうと思っていたものです。

町の本屋にでかけてもなかなか見つからなかったので、アマゾンで購入したのですが、届いた本をみてびっくり。総ページ566もの厚さです。これは大変と思っていたら、何と、老眼用に活字が大きい版を購入したことに気がつきました。結構これは、名実ともにありがたいのです。すいすいとページをめくっていく快感は、まるで自分の英語読解力が進歩したためかという誤解も楽しめるのです。

会話が中心の読みやすい内容なのですが、なにしろ、この街ワシントン特有の政治的な人間模様と、実際に存在する文化機関や、現実に起きた事件ではないか、と思わせる部分もかなりあって、街の事情通にはなんとも楽しめる作品となっています。数年前に話題となった連続殺人事件をたて軸に、そして作家自身がTVのインタビューで語っていたように、実はこの街ワシントンを陰で操っているのは女性であるというメッセージがあり、女同士の友情が横軸として話は進んでいきます。

 主人公の名はRevenで、ジョージタウンでアンティーク店を経営している女性。変わった名前は、両親が予想外に生まれてきたために、まさか(Never)!ということで、それを反対から読んでReven. なんとも人を食った命名です。

ケネディ・センターはポトマック川畔にそびえたつ白い舞台芸術の殿堂ですが、ここを舞台に、巨額の寄付をする女性慈善家と経営者側の駆け引きが、ひとつの山場となっています。ここは連邦政府が建立した劇場であるだけに、年間予算も、寄付も議会の承認を得なくてはなりません。そういった事情を盾に、フィランソロピーという名のもと、自分の売名行為として寄付制度を悪用する新興金持ちの実態などが、小説を通して学ぶこともできます。

また、これは実存の人物ではないかしら、と思わせるような登場人物も数々現れます。たとえば、ケネディ・センター館長マイケル・カイザーならぬ、カイル・マイケルズ。同センターの芸術監督で指揮者であったマエストロ・レナード・スラトキンも、レオニード・スロボキンとして登場します。また実際に、当地の社交界の花形でもあるクウェート大使夫人も、“オタニ国”大使夫人ヌーリア・サハラとして登場しています。どこまでが事実でどこから虚構なのか、読者に勘ぐらせる工夫も心憎いほどです。果たして、実存のご本人たちは、どのような気分で読んでいるのでしょうか。

 主要登場人物のひとり、主人公のRevenが情報提供者として一緒に動く、ニヒルなアフリカ系米国人刑事のガナーの愛読書が、宮本武蔵の『五輪書』なのには驚きました。この本からの引用があちこちに出てきますが、故に、ガナーはサムライとも呼ばれている設定です。

 先般、サンフランシスコのアジア美術館で開催中の細川家所蔵の美術工芸品が出品された「サムライ」展を見ましたが、これも展示場の構成が、第2部は「宮本武蔵」なっていました。

 出品されていた五輪書

 ミュージアムショップでも、関連本や漫画本まで各種とりそろえてあり、かくもアメリカで、サムライ・武蔵は人気なのかと認識を新たにしました。が、そのヒントはこの小説のなかにも書かれていました。1980年代、アメリカの主要な大企業のCEOたちが、経営指南書よろしく競って読んでいたのが、この『五輪書』だったということなのです。ということで、クールなサムライは、世代と社会階層を越えて人気があることを確認した、夏休みの乱読でした。

(注)ジム・ホグランドの最新記事(9月6日付け)は、日本の政権交代についてです。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/09/04/AR2009090402969.html

DC Grapevine No. 33 (September/09) by Misako Ito

《No,32》 ナチス、ユダヤ人、そしてイルカ

 待ち合わせの時間調整のため、たまたまクエンティン・タランティーノ監督の映画Inglourious Basterdsを観ました。「キル・ビル」では日本のやくざを描きましたが、今回は第2次世界大戦中のナチスと、アメリカ特殊部隊との戦いです。
http://inglouriousbasterds-movie.com/

 米特殊部隊のリーダーを務めるのはブラッド・ピット。そしてナチスのSS将校を演ずる、オーストリア生まれの俳優クリストフ・ヴォルツの芸達者ぶりは、さすが、カンヌで主演男優賞をとるだけのことあります。日本には生まれようのないタイプの演者であることはたしかです。なぜでしょうか。そのヒントは、共演女優の「聞くのもなんだけれど、アメリカ人って、いったい英語以外に話せる言葉はあるのかしら?」という皮肉な台詞です。
 
 ナチスにしても、対するユダヤ系アメリカ人だけで構成されている米特殊部隊にしても、その残虐性にかけては、十分「地獄のバスタード」のタイトルにふさわしい内容となっています。私も上映中、何度も目を覆ってしまうシーンが出てきます。タランティーノ監督お得意の、画面にグラフィックを重ねるお馴染みの技法も洒脱です。

 会場では観客がこの作品をエンターテインメントとして楽しんでいる様子が、十分感じられました。極悪非道に描かれたドイツ人も、ユダヤ人も、だからと言って2009年現在、今さら娯楽映画に目くじらを立てる野暮はいないでしょう。現に、親しいユダヤ系アメリカ人夫妻に感想を聞いたところ、「人物、ストーリー、刺激的な会話、視覚的効果、すべて他のタランティーノの作品と同様、楽しんだよ」とのことでした。でも、これが、もし戦時中の日本兵の残虐性が描かれている映画だとしたら、どうでしょう――と、考え込んでしまいました。
 
 というのも、DCでも上映中だったドキュメンタリー映画「The Cove」が、ちょっとした現象を起こしています。これは、日本の和歌山県太治町で行われているイルカ漁が、いかに残酷なものか描かれているものです。ナショナル・ジオグラフィックのキャメラマンが撮影した美しい映像だけに、8月初頭のサンダンス映画祭でも受賞し、このままでいけばアカデミー賞受賞も射程にあるとのことです。

 最初はポスターの真っ青な海のなか、イルカと一緒に泳ぐダイバーの姿に魅かれ、切符を買った人もいるでしょう。あるいは、確信的に内容を知って劇場に向かう人もいるでしょう。しかし、映画後半のイルカが虐殺され、海が真っ赤に染まるあたりから、劇場内には泣き出す人もでてきます。これを観終わった人は、きっと日本人全員が嫌いになるでしょう。

 私たちのオフィスには、膨大な量の抗議の電子メールが届きます。2週間で2万件以上となりました。電話もたくさんかかってきます。「日本の文化が好きだったけれど、こんな残虐な日本人たちがいるなんて、許せない。もう、日本製品は買わない」と言って、電話を切る人たち……。
 
 製作者側の隠しカメラをしかけて撮影するやり方は、たしかに卑劣です。ただ、21世紀の現代社会、しかも日本はその豊かな文化を自慢できる先進国として、こういうイルカ漁をしていること自体、やはりあまり誇れることではないと、私は感じています。そう感じている日本人もたくさんいるはずですが、同時に他国にとやかく言われる筋合いではないと思う人もいるのです。きっとこういうことが、日本にいるときにはよく分からなかった、国内と海外の現場との「温度差」ということでしょうか。
パブリック・ディプロマシー(対市民外交)を考えるときに、赴任地の現地の人に向かっての発信もありますが、自分の国の世論に向かっての“外交”に知恵を絞らなくてはならない、というのも、また事実なんだろうな実感している夏休み最終日でした。

《No.31》 ポニョとの約束

さて、「ポニョ」です。ご存知、宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」がここアメリカでも劇場公開が始まりました。全米で927館での公開、この週末の劇場窓口のチケットセールスは、9位ということでした。上映5週目に入る「ハリー・ポッター」が、「ポニョ」の約3倍の数の劇場で公開されていながら、510万ドルの売り上げです。それが「ポニョ」は360万ドルの売り上げを記録しているのです。ワシントン・ポスト紙も良いレビューを掲載していました。

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/08/13/AR2009081300895.html


私は4年前に仕事の関係で宮崎監督の知己を得て、そのご縁で、7月末にロサンゼルスで開催された監督がご挨拶される特別試写会に出席する機会がありました。


ハリウッドの劇場でレッドカーペットの日の看板

その後、ワシントンDCの大使館広報文化センターでは、スタジオジブリとディズニー社のご協力を得て、全米劇場公開前に「ポニョ」の試写会を開催することができました。8月12日のことです。すでに宮崎駿監督の名前は広くアメリカ人の間に知れ渡っており、いつものようにEメールでイベント告知をすると、たった2時間半で予定されていたチケット予約がうまってしまいました。
ワシントンDCは、大国アメリカの首都というイメージとは裏腹に、市内には失業率・犯罪率も高く主としてアフリカ系米国人が住む地域があります。そのなかでも、親がホームレスか失業中、あるいは平均所得以下の子どもたちのためにサマースクールをしているNPOがあります。そこで先生をしているジェニファーは、かつて大使館でインターンをしていた、日本文化ファンの女性です。そんな彼女の日ごろの努力に答えることができればと、今回の試写会に、彼女が担当する子どもたち(小学校低学年)20名を招待しました。こういったNPOの活動は、現在オバマ大統領夫妻が熱心に進めている“United We Serve”というイニシアティブ http://www.serve.gov/ にも合致するもので、私たちも何か貢献できればすばらしいことだと思っていました。

さて当日、やってきた子どもたちのまたかわいらしいこと! ほとんど全員が、生まれてこのかた、映画館に行ったことがないということでした。薄暗くなったホールに一歩足を踏み入れただけで歓声をあげ、そして映画が始まると、一つひとつのシーンでころがるような笑い声をあげて楽しんでいました。今日ジェニファーから「子どもたちが礼状を書いたので」、と大きな封筒が送られてきました。



金魚から突然、足がはえてきた女の子ポニョの姿を描いてくれたこの子の心には、鮮烈にあのきれいな映像と音楽が刻まれたことでしょう。7月のロスやサンディエゴでは、千人単位の観客のスタンディングオベイションで迎えられた宮崎監督ですが、ここワシントンの20人の小さなお客様たちの興奮ぶりも、同様に喜んでいただいているに違いありません。

《No.30》ベッドフォード・スプリング今昔物語

 広報文化センターの仕事をしていると、さまざまな方から情報提供のお電話をいただきます。たいていは、シニアの方で日本に親しい気持ちを抱いてくださっているアメリカ人たちです。日系人で元大学教授のトミヨさんも、そんなご婦人のひとり。ワシントンDCから車で3時間半ほどのメリーランド州で、ご主人とふたりの引退生活を楽しんでおられます。まだ実際にはお目にかかったことはないのですが、数ヶ月に一度、お電話でおしゃべりをしたり、旅行先のインドネシアからメールが届いたりしています。ありがたいことです。

そのトミヨさんから、「20年のブランクを経て、由緒あるホテルが営業再開をしたから、見に行ったらいかが?」という電話がありました。ペンシルバニア州の静かな田舎町ベッドフォード・スプリングにあるホテルです。しかも、日本との縁もあるというのです。

18世紀当時、ネイティブ・アメリカンには、すでにその鉱泉の存在はよく知られていたようですが、それを発見したアンダーソン医師が1802年に、治療のための温泉保養場をここに開設しました。それが、今のベッドフォード・スプリングの始まりです。「草津よいとこ〜」よろしく、「サラトガより、旧大陸のバーデンより良い温泉!」と歌にもあるそうです。


Bedford Springs

早くも1821年にはジェームス・ブキャノンがここを訪れ、その後の大統領在職中(1857-61)には、大西洋間のケーブルも敷かれ、「夏のホワイト・ハウス」と名づけられたこのホテルで、ブキャノン大統領は3日間にビクトリア女王と40通にわたる電報をやり取りしたという逸話もあります。また、アイゼンハワー大統領の時代まで、合計7人の現職大統領が、避暑地として夏を過ごしたとのことです。キャンプ・デービッドがなければ、今年はオバマ一家が過ごしていたかもしれません。

第2次世界大戦中、ここは米国海軍施設として使われていたのですが、ドイツで捕虜となった日本人外交官等がここに身柄を移され、1945年11月末まで過ごしていたというのです。ホテルの売店で買った『ベッドフォード物語』(ネッド・フレア著)によると、当時の様子がこのように描かれています。

「(当時の)AP電によると“駐独日本大使と彼の同僚たちが昨晩、かの有名な保養地ベッドフォード・スプリングに到着した。米国務省は彼らと126名に上る家族たちを、期限は未定ながら、連合軍捕虜との交換をめざして宿営させる”とし、ニューズウィーク誌は、“地元住民は、不遜な日本人たちがあの有名な400室のホテルで、プールで泳いだり、ゴルフを楽しんだり、優雅な食堂で食事するなんて我慢がならないと、国務省に激しく抗議をし、職員が説明に出かけて来ざるを得なくなった”と伝えた」

結局193人となった日本人たちは、ホテル内の限られた場所しか歩けず、ゴルフはもとより飲酒は禁止され、プールにも蓋がされ、食事もワシントンDCから運ばれた食材でのみ料理され、カフェテリアでまとまって食事をしたとのことでした。

調べてみると、外交官やその家族のほか、当時ドイツで活躍していた、ヴァイオリニストの諏訪根自子さんや指揮者の近衛秀麿氏など芸術家をはじめ、民間人もここで抑留されていたことがわかりました。

実際に訪れたホテルは200年の歴史を誇るだけあり、建物のありとあらゆるところに、往年の宿泊客たちの記念写真やゆかりの展示物がありました。残念ながら、当時の日本人たちの暮らしぶりをうかがえるものは、見つけることができませんでした。つい最近、大型ホテルチェーンに譲渡されたためか、従業員に聞いても詳細を知る人はいませんでした。それでも、1905年に作られた室内プールの温泉水の柔らかさが、何となく心地よい日本を思い起こさせる気分がしたものです。

今回の旅、冒頭のトミヨさんの助言によって、ワシントンから向かう途中のカンバーランドという、かつての産業拠点地にも立ち寄りました。ここは、鉄鋼の街ピッツバーグのお膝元ということもあり、溶鉱炉跡や鉄道、そして運河など当時の盛隆ぶりを偲ばせるものが観光資源として健在でした。日本の富岡製糸工場とも連携していた絹の製糸工場も、今は廃墟となっているようですが、ここの視察はまた次の機会に譲りました。

東京にとっての箱根や軽井沢のように、首都ワシントンDC近郊の街には、何やらまだまだ、“日本がらみ”で面白そうなお話がたくさんありそうです。